季節ときしおり

2022.11.11


最近、周りでは、農業生産法人をつくる農家さんが多く、その中の一件の農家さんが、都会から就農したい若者を募集すると言って、3年前に数名の方を就農させました。新しい試みでなかなかと思っていたのですが、先日、その生産法人の社長とお話しすると1年過ぎて、残った方は、わずか1人だったと。理想と現実のギャップがあって、なかなか難しいなと言う話しになりました。実は、お恥ずかしい話しなのですが、私自身も、学生の頃、農業が嫌でした。まだ、私が小学生の頃、40代前半の働きだかりの父が、山を開墾して、当時では、大きな3haの畑をつくりました。そこに、7~80cmの小さな蜜柑の苗木を6000本弱植え。むき出しの栄養分のない赤土に、肥料分が足りないと、鶏糞を小さな苗木に与えるのです。 晴天の日は、養鶏農家さんが、毎日、鶏糞を畑に運んで来てくれ、今では、ビニール袋ですが、当時はまだ、紙の米袋に入った鶏糞で、夜露がかかると重たくなると、その日のうちに幼木の根元へ。人手が足りないからと、放課後になると毎日、肥料やりで、少ない日で200袋、多い日は800袋。午後3時ぐらいに畑に行っては、終わるのがいつも日暮で、頭の先から靴の先まで、鶏糞まみれで・・小さい苗木は植えて数年は手間がかかるので、そういうことが何年も続いたりと・・。高校は、普通科で農業なんかせずに、もっと違った仕事がしたいとアメリカの大学へ。コンピューターサイエンスを勉強していたある朝、珍しく寮の電話が朝早くから鳴り止まなくて、受話器を取ったら父からで、「医者から肝臓癌と宣告されて・・・余命3ヶ月と・・・いつ帰ってこれる?」と

あれから40年たち、その当時、鶏糞を与えた7~80cmだった苗木は3mを超える立派な大木になりました。今では、私どもで一番味が良い蜜柑が収穫出来る畑になっています。人間の時間ではない、自然の時間軸で、育った木々たちです。今、私自身、2人の子供の親となり、父がその畑を開墾した年齢を過ぎました。

「父は、小さい私が跡を継ぐことを願って畑を開拓したと言うこと。」

寡黙な父は、「好きな事をすれば良い」と、一言も、継いでくれと言う事は話しなかったのですが・・・

今は、あれだけ嫌で嫌で仕方なかった農業が凄く新鮮で、心から農業という仕事が良かったと思っています。これだけ、ITやネット、ヴァーチャルな世界がどんどん膨れ上がって、実態経済からかけ離れ、お金がお金を産む世界が拡がり、益々曖昧な世界になっていく中で、今まで当たり前だった「時間と汗を流した労働の積み重ねでしか生産出来ない仕事」が本当に重要になるのではないかと思うようになりました。

農業は、自然と対峙しながら土に触れ農産物を栽培する仕事。生産効率だけを考えると経済効率という物差しでは計れなくて、誤魔化しがききません。でも、これだけ「科学万能」が発達しても、未だ、人間は、葉っぱ一枚さえ作ることも出来ず、その葉っぱから出される酸素で、私たちは生かされていると言うことが当たり前過ぎて忘れていると・・・。ちなみに、1人の大人が一年間に吸う酸素の量は、直径2mの木で、1.4本分ほど必要だそうですが、地球上の自然が破壊され、人間を含めて動物が増え過ぎると、どこかでアンバランスが起きて、酸素がたりないということになるのかもしれません。

もしそうなっても人間は、きっと酸素を作って売買するでしょう・・・

そんなことを考えてしまうと経済のための自然破壊などもってのほかで、雑草1本からでも、酸素をいただいていると思えば、自然に対してもっと謙虚になれるし、自然の中で人間は生かされているとつくづく思うのです。私自身大きな事は出来ませんが、畑を守り、里山の自然を守り、雑草であっても、上手く共存共栄して行く。

そう考えると農家のせがれに生まれたことが誇りに思えるのです。


TANIIFARM By 谷井康人

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